献帝(けんてい)は後漢の末代皇帝。
生涯 [編集]
霊帝の次子で、少帝弁の異母弟。母親は王美人。生没年が諸葛亮と同年である。
189年に父・霊帝が崩じると、劉協は霊帝と何皇后との間に生まれた皇子弁と帝位を争う事になった。これは幼い本人同士の争いではなく、何皇后とその兄の大将軍何進の皇子弁側と、王美人が死んだ後に協の養育をしていた董太后と宦官の協側の争いである。この争いは弁側が勝利して帝位に就き、劉協は陳留王となった。
その後、董卓が洛陽に乗り込んでくると強引に皇帝に擁立された。もちろん傀儡であり董卓が長安に遷都すると献帝も連れ去られる。董卓が呂布に殺されるとその勢力を継承した董卓の部下達の傀儡となる。董卓の部下達の仲間割れの中でその一部である董承・楊奉らに連れられ長安から洛陽に戻るが、今度は曹操の傀儡にされ、豫州許県に連行される。
その後、曹操は献帝の権威、道理的正当性を背後に勢力を拡大し華北を統一した。この間、献帝は曹操を討つ密詔を董承に渡すなど曹操の“くびき”から逃れる事を画策したが失敗し、帝の側室であり董承の娘である董貴人が妊娠していたために、曹操に彼女の助命を嘆願したが聞き届けられず、董貴人は縊り殺されたという。それらを重ねる度に帝の発言力が徐々に失われていった。
220年、魏王曹丕は献帝から禅譲を受け漢は滅亡した。献帝は山陽公となり、皇帝という身分は失っても、「朕」という皇帝だけが使える一人称を使う事を許されるなど様々な面で厚遇された。また、皇子で王に封じられていた者は、みな降格して列侯となった。また、蜀には劉協が殺されたと伝えられたため、劉備はこれを理由として皇帝を称し、漢の後継者を自称した上で、独自に孝愍皇帝の諡を送った。
曹丕が献帝に禅譲を強要した際、皇后である曹節は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還することを幾度も拒み続けたが、「とはいえ、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しくなじり「天に祝福されないのか」と嘆き玉璽を放り投げ涙を流し、その場にいた者は顔を上げられなかった。「三国志演義」では逆に兄からの禅譲を献帝に勧めている。
その後の劉協は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、234年3月、五丈原で諸葛亮が死ぬ5ヶ月前に54歳(数え年)で死去した。魏は孝献皇帝(献帝)と諡した。
その末裔 [編集]
劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が234年に、祖父の後を継いで山陽公を継いだ。後に、魏より禅譲を受けた西晋の代になっても山陽公はそのまま在続を許された。劉康は285年に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は289年に間もなく死去し、子の劉秋が跡を継いだ。しかし、永嘉の乱の真っ最中の309年、劉秋は匈奴系の趙漢(前趙)の将軍である汲桑軍によって家族共々に殺害され、爵位は断絶した。こうして、後漢王朝の嫡流は途絶えた。 ちなみに(事実かどうかは別として)、4世紀から6世紀にかけて日本列島に渡来した渡来人の中には献帝の子孫を称するものが多く見られる(東漢氏参照)。
宗室 [編集]
后妃 [編集]
孝献皇后(伏寿)
献穆皇后(曹節)
董貴人
子女 [編集]
太子(名は不詳)
南陽王・劉馮
済陰王・劉熙
山陽王・劉懿
東海王・劉敦
長楽郡公主・劉曼
曹丕の嬪(2人)
孫 [編集]
劉康
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